父が倒れたこと

今朝、食卓で父親がごはんを食べていました。

瞬きしながらニコニコしてたんで、なんやぁ、元気になったんや!!医者の言ってたこと間違ってたんやなぁって話しかけました。

めちゃくちゃ嬉しい瞬間。でもパッと目が覚めて、夢やったことがわかりました。

6月23日の深夜、大阪にいる兄からのラインで父が倒れたことを知らされました。ライン見たとき寝起きやったから一瞬意味が分からんかってんけど、徐々に目が冷めてきて、その事実が事実であることを受け止めるのに精一杯でした。

どうしよう。とにかく帰ろう。早朝、小晴を連れて大阪に帰りました。深夜のうちに父は救急車で運ばれ、緊急手術は無事に終わったんやけど、今後どうなるかはわからないと先生からの話でした。特別な処置をするから、一週間後にどうなるかとのことでした。

そのまま一週間、大阪にいて母と一緒に荷物の整理などしてました。父の部屋を片付けるのは早いと思ったけど、母は何かを察したようで、重たいベットとかを僕に片付けさせました。父の部屋を片付けてると、色んな思い出の物とかも出てきてめちゃくちゃ泣いた。スッキリしてしまった父の部屋を見て涙が止まれへんかった。

時間があるときは、父の生存確率や今後の可能性などネットで検索しました。父が特別な処置をなぜ必要としてるか、論文などを調べていくうちに、医学がたくさんの実証の積み重ねで発展していることを今更ながら感じたし、何より全く無力な僕の代わりに、先生が最大の処置をしてくださったんだろうということに感謝しました。

一週間後、父の容態を聞きに家族で病院に行きました。家族で面談室に入ってしばらくすると、先生が来て言いました。父は生きているしこれからも生きていける、けど意識が戻ることは99%ないです、とのことでした。

父は今も病院で寝てます。

親不孝やなぁと自分を責めたりしました。大学まで行かせてもらって、東京の企業でサラリーマンをしていたのに、脱サラして、静岡で農業を選んだ自分。

サラリーマンを辞めずに父とゆったり過ごす時間を増やしておけば、農業するにしてもせめて大阪の近くを選んでおけば、、、

でも僕がする選択に一度も文句を言わなかった父。いつも常に応援してくれた父。

父は車で片道8時間ぐらいかかるのに、10回以上も南伊豆に足を運んでくれました。退職して大きめの車を買って、荷物を沢山積んで南伊豆に来てくれてたんです。

得意の機械のメンテだけじゃなく、手が足りてないときは収穫なども手伝ってくれました。畑の倉庫を作ったときも、軽トラのリアガラスが割れたときも、ハンマーナイフの刃が折れたときも、トラクターのオイル漏れのときも、父が側にいて助けてくれました。遠くまで2人で農機具を取りに行ったりもしました。猫にはいつもたくさんの鰹節を買ってきてくれました。

南伊豆でたくさんの思い出ができて、それはそれで親孝行やったよ、と奈々は言ってくれるけど、農業ばかりして、親孝行らしきものは全くできなかったとやっぱり思ってしまう。

やっと農家として少しはまともになってきて、少しは安心できる姿を見せれるかなぁ、親孝行はこれからやなぁって思ってたのに。

南伊豆で料理する両親

頑張るから、見といてな。父さんが助けてくれたから農業続けてこれてるから。このまま続けて、いつか自慢できる子どもになるから。また大阪帰るからな。

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