ようは中庸

最近、急激に暖かくなってきました。

畑では雑草の勢いが猛烈で、その草の陰ではどこから来たのか昆虫たちが動き始めている模様です。

カエル、ハチ、アブラムシ、テントウムシ、何かよくわからない虫、シロザ、ホトケノザ、カタバミ、ハコベ、ナズナ、セイヨウアブラナ・・・たちがあたり一面にひしめき合っています。

よくよく虫たちの動きを追いかけて見るとけっこう面白くて、あぁこいつはこんなところで遊んでんねや、とか、あんたはこの花が好きやねんなぁとか、みんながそれぞれ相互に影響しながら生きてるのが可愛らしくて、そんな姿を発見するともう他人とは思えない気持ちになってきます笑。

春ってこんなにも命あふれる、いきいきした季節なんやなぁ。

サラリーマン時代も同じ景色を見てたやろうけど全然気づかなかったこの温かい世界、もちろん景色は当時と変わってなくて、自分の見方が変わっただけでこうも世界が広がり、楽しくなる。

あぁ、不思議。

植物は種を落とし、土に育まれてまた花を咲かす。
土という宇宙のような土俵を土台にして、育まれた植物に虫が集まり、その虫を求めてまた別の虫がやってくる。

そんなことをもう何千年、何万年と繰り返し続けてきたこの地球。
60億年という理解不能な長い歳月をえて、今この地球の姿が完成したわけで、人間の科学力だけでは到底分析できっこない深い深い連鎖が形成されている。

あぁ、不思議。

そうそう、サラリーマン時代といえば、僕はどこかむなしさを感じながら毎日仕事をしていました。
上司や後輩にも恵まれ、十分すぎるほどの給料も頂いてたのに、仕事が終わってみると達成感よりも闇に包まれるような焦燥感と違和感。

その当時は出口のないトンネルの中を進むような考えが、僕の頭の中でめぐりめぐっていました。

・・・

いったい僕たちはどんな世界を創っていくんやろう、その世界にきちんと責任と誇りを持って次の子供に引き継げるんやろか

・・・

それから時を経るにつれて色んな経験をした結果、今農業の道を進んでいるけど、その当時の自分の気持ちはやっぱり自分に正直やって、やっと自分としてきちんと進むべきに近づいているなぁって思う。

経済活動が必要ないとかお金は要らないとか、そんな極端なことを思っているのではないし、仙人みたいに、人里はなれた山の奥深くで、植物や他の動物と同じような暮らしをしたいわけでもない。

やっぱり現代人の多くは今の便利さなくしては生きにくいし、それを支える経済活動だってエネルギーだってありがたい。

今の自分を大切に育ててくれた親やご先祖さまにも感謝してるし、きっちりその責任を果たしたいとも思っている。

でも、たとえば経済的な利益の背景で、ごみが大量に発生したり、土や川や空気が汚染されたり、人の健康を害したり人の五感を低下させたりして、取り返しのつかない犠牲の連鎖を作るより、その犠牲を極力抑え、次の世代に後くされなく引き渡せるのがやっぱりいい。

消費によって一時的に満足する物欲に振り回されるより、自分の五感を頼りとして地に足をつけ、不思議にあふれる自然に満たされるのがやっぱりいい。

だから、僕は、息苦しく犠牲も大きい経済第一主義だけには縛られず、多様な見方や価値観が当たり前のように存在し、日本の素晴らしい自然と知恵を活かした、強くしなやかで誇りのある生き方を求めている。

だってそっちの方が、ずっと気持ちがいいし、奥が深いやん。

こんなことを、海と飛行機が見える小高い岡のある公園の芝生に寝そべりながら、ぼーっと考えていた昨日でした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました